ずっと傍にいたから、悪かったのかもしれない。
長い間、ずっと近くにいて、彼が彼女を見守る、その優しく慈愛にみちた瞳を見続けているうちに、たちの悪い魔法に
かかってしまったのかもしれない。
彼女と一緒に、彼に護られているような感覚。
彼女を見る彼の優しい瞳がふいに、あたしにも向けられているような感触。
彼女の次に、その大きく温かい手のひらが、時にふっとあたしの頭にものせられて、「花も頑張ったな」と垂れたまなじりが、さらに糸みたいに細くなって、くしゃ、と顔をくずす、その笑顔が。
本当は、彼は彼女のついでに、あたしにも彼女と同じようにしてくれていただけ、かもしれないけれど。
それでも、あたしは。
水滴が少しずつ零れ落ちていって、石に穴をあけていくように、少しずつ、少しずつ、彼があたしの心に侵食してしまって気づいたときには、あれ？って感じになってしまっていた。
傍から見れば、それは勘違いだったんじゃない？と言われても、仕方がないかもしれない。
だって、あたしはいつも京子の次に、彼からの慈愛を受けていたのだから。
だけど、あたしは確かに、彼に恋した。
じゃないと、こんなに胸は痛まない。
長い沈黙のあと、彼は困ったような表情をして、それでも、まっすぐな瞳であたしを見ながら「・・・すまん」とつぶやいた。
一瞬の空白の次の瞬間、あたしは笑ったから、彼は目を見開いて、でも、すぐにまた済まなさそうに顔をゆがめて、もう一度「すまん」と言った。
「知っていたから、気にしないで。分かっていたから」
あたしは、そう言うと、またへらっと笑った。
この状況で、笑う以外にあたしに何ができるというのだろう。
泣くのは、死んでも嫌だった。
泣くのだけは、絶対にするまい、と思っていた。
きまずい沈黙が流れるなか、あたしは精一杯の努力をしたと思う。
笑顔をくずさずに、彼がこの場を離れるきっかけを与え、彼をこの場から立ち去らせるという偉業をなしとげた。
彼は、いつもの彼自身の優しさで、あたしを気遣おうとした。
それは彼自身が自然に身につけた慈愛であり、あたしが愛した慈愛でもあり、愛したからこそ残酷な慈愛であった。
あたしは、その残酷さに泣き出しそうになりながら、それでも、笑顔を作り続けて、彼をこの場から解き放つことに成功したのだ。
馬鹿みたい、だと思った。
みたい、じゃなくて、馬鹿だと思った。
知っていたのに。分かっていたのに。
彼の心は中学生のころから、ある女の子に捕らわれていた。
それは知っていた。
京子を通じて、彼女の話は聞いていたし。
あの娘は、どこの子だろう、知らないか、花？
そう何度も彼に問われた。知るわけないじゃない、どこか違う町の子なんじゃないの？
胸を締め付けられそうになる感覚に耐えて、あたしは平然として、長い間、そう答えを返した。
知らなかったでしょう。あたしの気持ち。
じゃないと、あたしにそんなこと、聞けないでしょう。
もし、あたしが彼に「好きです」とか言ったら、どういうことになるのか、よく想像はした。
一度、会っただけの彼女のことは、諦めてくれて、もしかしたら、あたしを受け入れてくれるかもしれない。
あの温かい大きな手が、あたしだけのものになってくれるかもしれない。
でも、もう二度と、届かなくなるかもしれない。
あたしたちは高校生になっていて、彼も彼女のことを、あまり話題にしなくなって、京子とあたしと彼と３人の間でも、彼女の話題はでることがなくなっていたから、あたしは、忘れたふりをしていたのかもしれない。
あたしが告白したら、彼が困るかもしれないって、本当は知っていたけれど、それでも、長いあいだに侵食されたあたしの心は、原型すらなくなっていて、彼のことで一杯になってしまっていたのだから。
あたしの気持ちを伝えることが、彼を困らせることだとしても、あたしは伝えたかった。
この気持ちを伝えないことには、どうしようもなかったから。
だから、あたしは彼に「好きです」と伝えた。
彼はあたしの予想どおり苦渋の表情をして、予想どおりに「すまん」とつぶやいた。
あたしの予想したシナリオどおりだった。
だから、シナリオどおり、笑顔をみせた。
あたしは、彼が立ち去ったあと、ノロノロと足を動かすと、ブランコに座った。
あたしが告白場所に選んだのは、並盛公園だった。
夕方ごろで、夕日が美しく遊具を染めている時間をあたしは選んだ。
今は夕日が落ちてしまっているから、公園内の電灯が薄く光をはなって、うっすらと辺りを照らすだけだった。
ぎぃこ、ぎぃこ。
ゆっくりと、ブランコを前後に動かしながら、あたしは空中をみつめた。
目の前からやってくる人物については、見えないふりをした。
「黒川」
姿かたちから、彼だろう、とは思っていたが、実際にその男だと確信すると、あたしは、少しホッとした気がした。
こいつは、仲間だったから。
「ん」
山本武がもう一つあいているブランコに座ると、声を発して、となりからふっとハンカチを渡してきた。
あたしは黙って、そのハンカチを奪い取ると、ボロボロ流れ落ちてきていた涙をふきとった。
ぎぃこ、ぎぃこ。
ブランコのきしみが隣りからも聞こえてきた。
山本は、あたしに何も聞かない。
あたしも何も言わない。
どのくらい、二人ともが黙っていたか、分からない。
ただ、二人とも、ぎぃこ、ぎぃこ、と聞こえてくるブランコの音を聞いて、空中を前後に移動する浮遊感に身体をゆだねていただけだった。
沈黙を破ったのは、あたしの方だった。
「ねぇ、あんたは、ハルに自分の気持ちを伝えたの？」
あたしは聞いてみた。
彼だって、あたしと同じだったのだ。
叶わない想いを心に抱いて、どうしようも出来ない夜を毎日、過ごしている。
「・・・・・・たぶん、伝えね」
彼は沈黙のあと、そう答えた。
「どうして？」
あたしは自分でも分かっているのに、彼に聞いてみた。
きっと、彼はこう答える。
ハルを、困らせるだけだから。
あたしは、山本武のこうしたところが嫌いだった。
まずは自分より、他人の心を優先する、この男は。
それが出来る、その意思が、あたしには、もどかしく、羨ましかった。
「・・・黒川は、伝えたんだな。偉かったな」
彼はあたしの質問には答えずに、そう言った。
「・・・えらくなんかないわよ」
そう、あたしは偉くなんかない。
あたしは、自分の想いを彼に吐き出しただけだ。
知っていたのに。分かっていたのに。
馬鹿みたい、だと思った。
みたい、じゃなくて、馬鹿だと思った。
「あたしは、馬鹿、だったのよ。あんたのほうが偉いわよ」
あんただって、あたしと一緒だったでしょ。
ずっとハルに心を侵食され続けているくせに。
「ううん、黒川は偉かったよ」
山本はあたしを見ながら、まっすぐに、そう告げた。
「・・・馬鹿な、山本」
あたしは、つぶやいた。
あれから数年経って。
あたしにも愛し愛される恋人ができて。
ときどき聞く、彼のこと。
彼は相変わらず、彼女を想っているみたいで。
成長した彼女は、彼の想いをとまどいつつも、受け入れているみたいだった。
そんな話を京子から聞いても、もう胸は痛まないけれど。
あたしは、時に思いを馳せる。
「ねぇ、聞いてみてもいい？」
「なんですか？花ちゃん」
あたしとハルは、カフェでブレンドコーヒーと抹茶ラテを飲みながら、向かい合っていた。
ふっと、あたしとハルの会話が途切れたとき、あたしは聞いてみたいと思った。
数年前、ハルも、あたしと山本と一緒で、叶わない恋をしていた。
ハルは、沢田綱吉に想いを伝えて、そうして、玉砕したという意味では、あたしと同じ組だった。
「ねぇ、どうして、ハルは沢田に想いをつげたの？」
あたしは、ハルが京子と沢田の気持ちに気づいていたのを、知っていた。
だから、相手の心を知っていたうえで、告白したあたしとハルは同じだった。
ハルは少し目を丸くして、うーんとですね・・・と左手を口元にあてて、あたしの突然の問いかけにも嫌な顔をすることもなく、あの頃の気持ちを言葉にまとめようと思索しているようだった。
口元に当てられた彼女の左手の薬指には、シンプルだけどセンスの良い、指輪が光っている。
玉砕した彼女があれから時間を経て、あの並盛最凶最悪の不良とつきあっている、という事実を耳にしたとき、あたしは授業中にも関わらず、大声をあげて、クラスメイトから奇妙な目で見られたものだ。
正直、未だに信じられないのだけど、彼女はいつでも幸せそうだったから、世の中っていうのは本当に不思議だと思う。
思索が終わったらしいハルが、口元から左手をはなすと、ちょっと首をかしげて、
「うーん、やっぱり好きだったからでしょうか。とにかく大好きで、ツナさんにこの気持ちを受け取ってほしくて。そして、ツナさんにハルを好きになって欲しくて。一緒に手をつないだり、買い物したり、ツナさんの隣りにずっといたくて、ハルだけを見て欲しくて・・・」
「でも、ハルは京子と沢田の気持ちには、気づいていたわけよね・・・」
ハルは、ちょっと瞳をふせて「はい、ですけど・・・」と言葉を続けた。
「・・・諦めきれなかったんです。何もしないで、何も伝えないで、諦めるってことはハルには出来なくて・・・。
あのときは、ツナさんが困るだろうなぁ、って思いもしなかったのですが、きっと困っただろうなぁって思います。
でも、ハルはとにかく自分の想いを伝えたかったから・・・」
「・・・でも、後悔はしてないんですよ。ツナさんにハルの想いを伝えることができたこと」
ハルはにっこりと笑って、そう言った。
「そうだね」
あたしも微笑んだ。
あたしだって、後悔はしていないのだから。
あのとき、あたしは馬鹿みたい、だと思った。
馬鹿だと思った。
だけど、あたしは、どうしても、彼に伝えたかったのだ。
あたしを好きになってほしかった。
彼の心に別の女の子がいたとしても。
何もせずに諦めることはできなかった。
あたしは、あのとき、あたし自身の行為を馬鹿だ、と思いながら、でも、心のどこかで、そんなあたしのどうしようもない
愛しい行為を認めてあげたかったのだ。
山本はハルに想いを伝えたのだろうか。
ふと思いが横切った。
ハルに聞いてみようかと思ったけれど、やめておいた。
誰にでも、心の決着のつけ方はある。
あたしとハルは、相手に心をぶつけることで。
山本は、きっと自分自身で昇華させることで。
やるせなく、どうしようもない気持ちの解決策を幼い心なりに懸命に貫いた。
ねぇ、だから、きっと。
あたしたちは、また恋をすることが、出来たんだと、思うのよ。
END(2009.1.15)
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初の花ちゃん目線のお話でした。ふっと思いついて、書きたくなったのを、そのまま勢いで書いてみました。
片思い３人組のお話でした。
実は山花であったり・・・も少し、感じていただけたら、いいかな、なんて思ってます。