「ハル」
ハルは、応接室の黒いソファの上に座って、宿題をするために広げていたノートに書きこんでいた手を止めた。
そのまま、キョロキョロとする。
ここにいるのは・・・。
ヒバリさんと、ハルだけ・・・ですよね。
書類に目をとおしている雲雀の姿に目をとめて。
うーん、空耳ですね。
ハルは、英語の辞書を手にとって、「驚く」のスペルを確認しだした。
えっと、s・u・r・
「ハル」
p・ｒ、
「ハル」
i・s、
「ハル」
ed・・・？
３回ほど呼ばれて、ハルはやっと、その声が窓際の立派な机に座っている人物から発せられたことを認識した。
雲雀のほうへ、顔をむけると、彼はすぐに反応しなかったハルの態度に憮然としていたものの、
いつもよりは、柔らかい表情をしているように思われた。
「おいで」
「はひ？」
「おいで、ハル」
ハル。
ヒバリさんから呼んでもらえるなんて・・・。
ハルはじーん、と嬉しくなって、そろそろと雲雀のそばまで歩き出した。
今まで何度お願いしても、呼んでもらえなかったのに、やっとお願いが届いたのですね。
毎日、お星さまにお祈りして、良かったです。
雲雀の前に立って「なんですか、ヒバリさん」とにっこりして言うと、ちょいちょいと指で雲雀の隣りを指された。
「はい、ヒバリさん」
ハルは素直に机を半周して、雲雀の隣りに立つ。
雲雀は、ぐるっと椅子を回転させて、自分の身体をハルのほうへ向けた。
雲雀とハルの身体が向き合う。
「ハル」
雲雀は手をのばして、ハルの腕をとらえると、ぐいっと引き寄せた。
「はひっ！」
ポニーテールがゆらりと揺れて、ぼすっとハルの顔が雲雀の胸の中にうずまった。
ぎゅうっと強い力で抱きしめられて、感じる雲雀の腕が、広い胸が温かい。
「・・・ヒバリさん」
「ハル」
耳元で呼ばれる「ハル」という声。
その声にくらくらする。
何度呼ばれても、心臓が跳ね上がりそう。
ふいに、雲雀の右手がハルのあごに軽く触れて、クイっと上を向かせられた。
雲雀の綺麗な顔が、ハルの瞳に映る。
あ、っと思ったら、ゆっくりと雲雀の顔がハルの顔に近づいて。
「ヒバ・・・」
ハルを見つめている雲雀の漆黒の瞳が、いつもより、闇が深いように思われた。
うっすらと両の目に、澄んだ湖がはられているように、ゆらりと揺れている。
まるで吸い込まれるような、いつまでも見ていたい、深く、きれいな漆黒。
その瞳に、ハルの背中はゾクリとした。
少しずつ、漆黒の瞳が近づいてきて、ハルは、雲雀の瞳が自分を見続けている直前、ハルの瞳を、そっととじた。
と同時に、ハルの唇にあたたかいものがふってくる。
「んっ」
わって進入してくる、雲雀の舌が、雲雀の熱が、ハルの口内を支配していく。
求めるようにハルの舌をからませてくるから、ハルも無意識にこたえる。
雲雀の手がハルの髪を固定して、強い力がハルの腰を抱いて。
眩暈をおこしそうな、ふかくて、つよい、激しい口づけ。
とてもじゃないけど、逃げられない。
あつい、あつい、あつい。
「・・・んふぅ・・・はぁ」
ようやく離された唇と唇に、銀の糸。
ハルは、ぼぅっとして、ガクンっと膝がおれる。
そのハルの腕を雲雀が支えて、抱え込むように、ハルの身体を自分の胸におさめた。
そうして、一拍。
そのまま、ひょいっとハルを抱え上げた。
「・・・ヒバリさん？」
まだ瞳がうつろなハルを上から見下ろして、雲雀はハルを、黒いソファの上にゆっくりと降ろした。
ハルのきれいな黒髪が、黒いソファの上にサラサラと流れて、白い肌が映えて見えた。
雲雀の熱い手が、ハルの頬にそっと触れて何度かなでたあと、ゆっくりとハルの唇にもう一度キスをおとすと、
そっと耳たぶを軽く噛んだ。
「はひっ！」
雲雀の思いがけない行動に、ハルはドクンっと心臓が鳴って、身体をちぢこませる。
「ヒバリさん・・・ヒバリさん？」
呼びかけに応答はなく、雲雀はそのままハルの身体に覆いかぶさって、彼の頭をハルの首元にうずめていく。
「え？はひ？え？」
雲雀の吐息が、ぞわぞわと首筋に感じて。
ゆっくりと雲雀の手がハルの襟元をときだして。
「え？はひ？え？・・・・・ひゃっ」
雲雀の赤い舌がハルの首筋をなぞっていったとき、ハルはようやく事態を飲み込むことができた。
「ヒ、ヒ、ヒ、ヒバリさんっ！」
ハルは焦って、真っ赤になりながら、両手で雲雀の肩をグイっと押す。
びくとも、しない。
「あっ！」
強い力がハルの両手首を絡めたかと思うと、そのまま頭の腕で固定された。
ゆっくりと、雲雀の舌がハルの鎖骨に這わされて。
ブラウスのボタンが１つ、２つと外されていく。
「んっ、」
ぴりり、とした痛みを胸元に感じた。赤い痕がじんわり広がる。
露出された左肩に、空気がふれる。
雲雀の足がハルの足のあいだを割ってはいる。
耳元にまた、熱い吐息を感じて。
「ふあぁっ」
自分でも思いもしない声が漏れる。
動かない手。
動かない身体。
強い、強い力。
抵抗できない。
どうしよう。
こわい。
こわい。
どうしよう。
こわい。
「ヒバリさん・・・ヒバリさん・・・・ヒバリさん・・・・」
うわ言のように、もう名前を呼ぶことしかできなくて、ハルは、ギュッと瞳を強くとじて、彼の名前を繰り返した。
ハルの身体がカチコチに固まっている。
身体がこきざみに震える。涙がにじんでくる。
こわい。
こわい、です。
ヒバリさん、怖い。
雲雀の手が、ハルの太ももに触れた。
「あっ！」
びくっと大きく震えて、ハルの瞳から涙が零れ落ちた。
「・・・・・あつい」
ぴたっ、と雲雀の動きが止まって、数秒。そのままガクンとハルの上に雲雀の身体が落ちていった。
懸命に瞳を閉じていたハルは、雲雀の体重を一身に受けて、おそるおそる瞳をひらく。
「・・・・はひ？」
「・・・ヒバリさん？」
様子がおかしいと思って、ゆさゆさとハルは自分の身体を揺さぶってみるが、雲雀は動かない。
くたっとなったまま、息だけが荒い。
力を失った雲雀の手から解放されて、ハルが触れた雲雀の手首が、今更ながら、尋常でないくらい
熱いことに気がついた。
「ヒ、ヒバリさん？」
そっと、額に手をやる。
すごく熱い！
「ヒバリさん、大丈夫ですか？ヒバリさんっ！」
「・・・・・ん・・・だいじょうぶ、だよ・・・」
答えてくれるけど、動かない。
「ヒバリさん！」
ハルは覆いかぶさっている雲雀の身体を押しのけようとモゾモゾする。
重い。重くて、動かない。
男のひと、ってこんなに重かった？
「ヒバリさん！・・・く、くさかべさーん！来て下さい！草壁さんっー！！！」
ハルはモゾモゾしながら、大声で助けを呼んだ。
「これは、行くべきなのだろうか」
草壁はドアの前で、しばし考えていた。
雲雀からは常日頃、自分が呼ぶまでハルがどれだけ騒いでも、応接室には入って来るな、と言い渡されていた。
うむ、これは・・・どうするべきなのか。
「くさかべさーん！」
「草壁さん！！！」
三浦ハルが自分の名前を呼んでいる。
これは、どう判断すべきなのだろうか。
草壁は逡巡した。
バンっ！
ガコッ！
いきなり目の前でドアが開かれて、草壁のリーゼントがドアにぶち当たる。
「・・・・・・！」
草壁はよろめいて、片膝をついた。
「・・・草壁さん」
呼ばれて見上げれば、そこには襟元を開かれ、ボタンがはずされて、乱れた髪をしたハルが涙目で自分を見ている。
「・・・三浦・・・」
「・・・草壁さん」
乱れた姿。
切羽詰った声。
にじんだ涙。
草壁はクラリとした。
ああ、しまった。
やっぱり、委員長の命にそむいてでも、自分は応接室に入っていくべきだった。
学校で、応接室で、そんな、あるまじきことが行われてしまったなんて。
なんてことだ。
「草壁さん！ヒバリさんが大変なんです！」
「あぁ！大変だろうとも！」
「ヒバリさんが、ヒバリさんが・・・」
「あぁ！委員長・・・」
草壁は天井を見上げた。
「きゅう、救急車よんでくださいっ！」
「あぁ！救急車・・・は？」
「ヒバリさんが、病気なんです！」
結果からして。
雲雀の病名は「インフルエンザ」
体温は40.2度。
「よく、動けましたね」看護師さんは驚いて、そう言った。
ハルと草壁は、その３日後、仲良くインフルエンザにかかって１週間ほど、寝込んだ。
「なんだい、三浦？」
声をかけられて、ハルは瞳をキョロキョロしたあと、思いきって口をひらいた。
「あの・・・ヒバリさん、あのですね・・・」
「なに？」
「あの・・・あのときのこと、覚えていますか？」
「・・・あのとき？」
ハルは顔を真っ赤にさせて、ごにょごにょ言っている。
「聞こえないよ」
「あの。その・・・ヒバリさんがインフルエンザにかかったとき、のことです」
「覚えてない」
「・・・そう・・・なんですか？」
キッパリと言われてハルは、がっかりしたような、ほっとしたような複雑な気分になった。
「それが、どうかしたの？」
「いえ、何でもないです」
ハルは首をぶんぶん振って、再びノートに目を落とす。
いいんです。
あのときのことは、ハルの胸の中にしまっておきます。
すっごく、ドキドキして。
でも、怖かった。
力がすごく強くて、重くて・・・ハルの力なんて全然通用しなくて。
怖かった・・・。
おとこのひと、でした。
でも、すっごくドキドキしました。
真っ赤になって、ノートとにらめっこしているハルを書類の端から眺めながら、
雲雀は思う。
覚えてないはずが、ないじゃないか。
覚えている。
あの行動も、自分の意思で行ってしまったこと。
熱に浮かされた、とか、そんなことでは断じてなくて。
ただ、もう、どうでもいいかな、と思ってしまっただけ。
認めたくないだとか、プライドだとか、自制心だとか、いつも自分を縛り付ける何か、だとかが、
そんなものが、うっとうしくなっただけ。
だから、行動をおこした。
いつも、そう、したかった。
ハルと呼んで、ハルを抱きしめて、ハルにキスして、それから・・・。
すんでのところで止めたのは。
ハルが震えていたから。
身体をカチコチにさせて、震えていたから。
まだ・・・はやい。
まだ・・・はやい。
自分の気持ちは、ハルの気持ちを通り越してしまっているから、気がつかないけれど。
まだ、はやいんだね。
雲雀はハルを見ながら、そっとため息をついた。
早く、気持ちに追いついて。
ハル。
ねぇ、ハル。
あまり待たせると、こんどこそ、我慢できなくて、捕まえて食べちゃうよ。
END